古代三関の研究と歴史学入門

大学生・社会人向け歴史学入門。自身の研究テーマは「三関(鈴鹿・不破・愛発関)の成立起源と停廃理由」

鈴鹿関跡で歴史フィールドワーク

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古代三関のひとつ鈴鹿関跡を歴史フィールドワークしてきました。

JR関駅で降りて関町新所の観音山にある西城壁築地痕跡、JR亀山駅へ移動して亀山市歴史博物館にある重圏文軒丸瓦を見に行きます。

実施日は2018年8月27日(月)です。

今回の歴史フィールドワークの概要

鈴鹿関とは不破・愛発関に並ぶ古代三関の1つで、現在の三重県にありました。

発掘調査はまだ途中のため鈴鹿関の所在地は明らかになっていませんが、2006年に観音山より鈴鹿関の西城壁築地跡と8世紀中頃の瓦が出土し大きく研究が進みました。

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僕は大学の卒業論文で三関の研究をしたのですが、鈴鹿関についてはまだ現地に足を運んでいませんでした。

このブログの立ち上げにより再び三関への興味が湧いてきたので、鈴鹿関西城壁築地痕跡と出土した重圏文軒丸瓦を巡る歴史フィールドワークを実行したというわけです。

関宿と町並保存地区

関駅

そういうわけでまずは三重県のJR関駅に降り立ちました。この辺りは関町という地名であり、その駅と地名の由来は言わずもがな鈴鹿関です。

関駅のある関西本線は基本的に1時間に1本しか電車が走っていないので乗り遅れに注意です。僕は京都発の電車を数分乗り遅れただけで1時間のロスを食いました。

関宿

この辺り一帯は鈴鹿関跡よりも、東海道47番目の宿場である関宿がメインの観光資源のようです。

道の駅 関宿

では鈴鹿関西城壁築地跡を目指して国道1号線(東海道)を西へ歩いていきます。道の駅関宿は休憩やお土産を買うのに良いですよ。この後に行く亀山駅周辺はあまり良いお土産屋さんがありませんでしたから……。

関宿重要伝統的建築物群保存地区

しばらく歩いていると関宿重要伝統的建築物群保存地区への案内板が。

せっかくなのでここを通って行きましょう。

地蔵院

案内板通り進むと地蔵院があります。

諸国に流行した天然痘から人々を守るため、741年に東大寺の僧 行基によってこの地に地蔵菩薩を安置したとのこと。

町並保存地区

町並保存地区

この地蔵院に面して町並保存地区があります。お店もあって観光にちょうど良さそうな感じではありますが、この日は人が少なく静かな雰囲気でした。

観音山の鈴鹿関跡を目指す

観音院

町並保存地区を西へ進みます。途中で観音院があります。

古くは関西院福聚寺といい、嵯峨天皇の代(820年)に開創されたとのこと。

東海道関宿の守り仏として、後には観音山に西国三十三ヶ所の霊場を開いて人々の篤い信仰によって支えられてきたらしいです。

公園道

観音院の西側に公園道という道標がありました。ここを進めば目的の観音山公園まで行けるようです。

観音山公園

しばらく進むと公園っぽく整備された場所に来ました。

観音山公園 SL

観音山公園に到着。SLが展示されています。三菱造船株式会社神戸造船所によって1933年2月に製造され使用開始、39年間動いていたそうですよ。

観音山公園 土俵

これは土俵ですかね。相撲大会でも行われるのでしょうか。

鈴鹿関西城跡築地痕跡

観音山公園 塀

さて、この観音山公園のどこかに鈴鹿関西城跡築地痕跡があるはずです。

観音山公園 塀 シート

SLのあるところから西方向へ歩いていくと、何やらシートで隠された部分を発見。

鈴鹿関西城跡築地痕跡

そのすぐそばに鈴鹿関西城跡築地痕跡の案内がありました。そこにはこう記されています。

律令三関の一つ伊勢鈴鹿関の西城壁の一部で、鈴鹿関跡に関連する遺構として平成十七年四月に確認された。高さ一m、幅五mほどの土塁状の痕跡が残されており、発掘調査の結果、築地塀であったことが判明した。出土した重圏文軒丸瓦から、聖武天皇関東行幸(七四〇年)頃に整備されたものと推測される。

平成二〇年三月 亀山市教育委員会

https://www.kodai-sangen.com/entry/function-on-ritsuryowww.kodai-sangen.com

鈴鹿関には「西内城」「西中城門」「城門」「守屋」という建物があったことがわかっています。

発掘された築地痕跡が鈴鹿関全体を囲む城壁のものなのか、それとも西内城の城壁だったのか、どちらなのでしょうかね。

いずれにしても、鈴鹿関の西端がこの付近だったことはわかりましたね。今後の発掘調査次第でどれぐらいの大きさで、どこにどの建物が位置していたかが判明していきます。

鈴鹿関西城跡築地痕跡 濠

築地痕跡のすぐ西側には小さな川がありました。これは僕の勝手な憶測ですが、そばに城壁があったのであればこれは濠の名残なのではないでしょうか。

鈴鹿関西城跡築地痕跡 門

そして川を渡る橋の辺りに西門があり、この道を南北に挟んで対になるような構造だったのではないかと妄想します。

ただ、鈴鹿関は交通検察をする施設のため、この道が旧東海道でなければ辻褄が合いませんね。

早く次の発掘調査が行われないでしょうか。気になります。

関宿 西の追分と東の追分

関宿 西の追分

国道1号線まで戻ってきました。再び関宿町並保存地区に入ります。

関宿 西の追分

関宿の西の追分と呼ばれるところで、東海道と大和街道の分岐点です。東海道は京都、大和街道は奈良へ辿ります。

全国各地に追分(おいわけ)という地名があるのですが、その地には街道の分岐点があるはずです。その分岐点で牛車を追い分けたことからその名がついたのです。

関宿 西の追分休憩所

西の追分休憩所。普通に集会所っぽい感じでした。

地蔵院

地蔵院まで戻ってきました。来た時には気付きませんでしたが、「歴史の道」と刻まれた石標があったのですね。

町並保存地区

東の追分へ向かいます。

関宿旅籠玉屋歴史資料館

関宿旅籠玉屋歴史資料館があるのですが、月曜日は定休日で開いていませんでした。

博物館や資料館の多くは月曜日が定休日であることが多いので、歴史フィールドワークを行う時は月曜日を避けた方が無難です。

今回月曜日にもかかわらず訪れたのは、目的である亀山市歴史博物館が月曜日でも開いていたからです。

御馳走場

御馳走場。宿場の役人が関宿に出入りした身分の高い武家や公家に対し、宿場両端の御馳走場まで出迎えや見送りを行った場所とのこと。ここでご馳走を食べたわけではないのですね。

関神社

この御馳走場から北へ行くと関神社がありました。この辺りの氏神神社のようです。

関宿 東の追分

東の追分まで来ました。東へ行けば東海道、南へ行けば伊勢別街道(京都からお伊勢参りに訪れる人が通った街道)へ分岐します。

関宿 東の追分 鳥居 一里塚

東の追分には鳥居があり、これは元々伊勢神宮のものとのこと。式年遷宮の際に古い鳥居をここに移築する習わしになっているそうです。

この周辺のフィールドワークを終えて関宿周辺でお昼ご飯を食べたかったところですが、次の亀山駅へ行く電車の時間が迫っていたので断念しました。

やはり京都で1本電車を逃したことが悔やまれますね。

亀山城址を目指す

亀山駅

亀山駅にやってきました。関駅から1駅です。

野褒之神社 一の鳥居

駅の正面には野褒之神社の一の鳥居があります。元々はもう少し北の東海道辺りにあったそうですが、道路の幅を広げるのに邪魔だったという理由で駅前へ移転したそうです。

野褒之神社に隣接する野褒之大塚古墳は日本武尊(やまとたけるのみこと)の墓と推定されています。

亀山城址への道のり

亀山城址へ向かいます。駅近辺はかなり静かですが、東海道沿いは都会の雰囲気が出ています。

関宿でお昼ご飯を食べ損ねた僕は、適当にはま寿司で食べることにしました。シャリがぬるかった……。

亀山宿

道中にあった亀山宿。関宿の1つ前である46番目の宿場です。

亀山城址

亀山城址に到着しました。

伊勢亀山城は1265年、若山(亀山市若山町)に関実忠が最初に築城しました。1573年、織田信長により関盛信が追放されるまでの関氏16代の間に現在の位置に遷されたとされています。

1590年、岡本宗憲の入城後に新たに築城され、本丸・二の丸・三の丸から成り天守も建てられたとのこと。丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したという逸話もあるようです。

1636年に本多俊次が城主になると、亀山城の大改修が行われました。城の外周は堀が廻り、城内には本丸・二の丸・東三の丸・西の丸・西出丸の曲輪がありました。さらに本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二の丸には城主居館と藩庁を兼ねた二の丸御殿が設けられました。

城主は八家がめまぐるしく入れ替わり、1744年に石川総慶が城主になると以後は石川家11代で明治維新を迎えました。

亀山城多門櫓

1873年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣、土塁、堀の一部だけが残っています。

多聞櫓は県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として三重県指定文化財に指定されました。

亀山神社

敷地内にある亀山神社。

亀山城址 SL

城の跡地が公園となっているのですが、ここにもSLが置かれていました。

1944年に川崎車両神戸工場で製造され、26年近く走っていたそうです。

亀山古城

亀山城址を抜けて亀山市歴史博物館へ向かう途中に小高い山があり、ここは古城と呼ばれる場所とのこと。

江戸時代に作られた『亀山城絵図』に古城と表記されているが、いつの時代のどの城を示しているのかは不明とのこと。

この辺りは亀山市若山町であり、おそらく中世の亀山城だったのではないかと推測されています。しかし、中世の亀山城を示す遺構などは見つかっていないため現段階では謎のままです。

亀山市歴史博物館へ

亀山公園

歩いているうちに亀山公園に着きました。

亀山市歴史博物館

その中に目的地である亀山市歴史博物館です。入館料は大人200円です。

常設展の中に見たかった重圏文軒丸瓦が展示されていました。一部展示を除いて写真撮影は禁止されていなかったのでこの瓦の写真は撮りましたが、僕のポリシーとしてお金を払って入る館内の写真はネットにアップしません。それに検索したら公式の画像が出てきますしね。

http://kameyamarekihaku.jp/25kikaku/seki_zuroku/corner2-3.html

積み上げ技法の横置型一本作りという製法で、粘土を積み上げた跡であるヒビが確認できます。この技法と文様から8世紀中頃に作られた瓦であることが確認できます。

これが観音山の築地痕跡から発掘されたので、鈴鹿関が8世紀中頃まで遡ることができるというわけです。ただ、さらに古い瓦や遺構が出てくれば年代もさらに遡ります。

地元の歴史をしっかりと解説している良い博物館でした。鈴鹿関は壬申の乱当時から存在したと断定する本やネット記事もある中、そうとうは言い切れないことを説明しているのはとても好印象でした(なぜか上から目線)。

あと大きな収穫もありました。僕はこれまで「停廃」を「ていはい」と読んでいたのですが、「ちょうはい」とルビが打たれていて、初めて正しい読み方を知りました。卒業論文の中間発表や口頭試問で「ていはい」って連呼してましたよ……(笑)

亀山駅にて歴史フィールドワーク終了

亀山駅

そういうわけで今回の歴史フィールドワーク終了です。

もう少し時間があれば伊勢国府跡まで足を伸ばしたかったのですが、電車が1時間に1本しか走っていないというのが致命的でした。

また発掘調査が進展したり、講演とかがあれば再び訪れようと思います。

不破関跡へ歴史フィールドワークしてきました。

www.kodai-sangen.com