古代三関の研究と歴史学入門

大学生・社会人向け歴史学入門。自身の研究テーマは「三関(鈴鹿・不破・愛発関)の成立起源と停廃理由」

三関の停廃理由に関する研究 〜続日本紀の記述を巡って〜

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前回の記事より、律令において最重要視されていた三関(鈴鹿・不破・愛発関)は、延暦八年に突然停廃されます。

停廃に到った経緯や理由について研究されており、いくつか説はあるものの未だ不明です。

先行研究として喜田新六氏、野村忠男氏、松原広宣氏の各論の要点をまとめました。

三関は延暦八年に突然停廃された

三関は律令政治において軍事・交通的に重要な役割を担っていましたが、延暦八年に突然停廃されます。

『続日本紀』延暦八年七月甲寅条

甲寅 勅伊勢。美濃。越前等国曰。置関之設。本備非常。今正朔所施。区宇無外。徒設開険。勿防御。遂使中外隔絶。既失通利之便。公私往来。毎致稽留之苦。無時務。有民憂思革前弊以適変通。宜其三国之関一切停廃。所有兵器糧糒運収於国府。自外舘舎移建於便郡矣。

要約:特に外患がないため三関を防御に用いることはなく、それどころかむやみな検察で畿内外を隔絶して交通の妨げになっていて時務に益無し。三関の一切を停廃し、三関が所有する兵器や食料の備蓄は設置している各国府に納め、建造物などは最寄りの郡に移せ。

三関停廃理由に関する先行研究

三関は以上のような経緯で停廃しますが、防御を必要としなくなったと判断する理由が不明です。

延暦年間に入って以降は蝦夷との緊張状態が続きましたから外患はあったはずです。この史料を表面的に解釈すべきでないでしょう。

三関が停廃に到った本当の理由とは何だったのでしょうか。このことについて喜田新六氏、野村忠雄氏、松原広宣氏が各々の見解を述べています。

喜田氏:長岡京造宮に際する交通の円滑化が目的

  • 「時務」は長岡京造宮を意味しているとし、事業を円滑に進めるための施策だった
  • 三関に続いて『続日本紀』延暦八年十一月壬午条では摂津関が、『日本紀略』延暦十四年八月己卯条では近江国相坂関が停廃された
  • 畿内を囲む5ヶ所の関を停廃することによって東西の交通を開放し、各地方の役夫が盛んに往来できるようにすることが目的だった

野村氏:貴族による律令制再建運動の一環

  • 道鏡失脚によって復権した貴族勢力による縮小した形での律令制再建運動の1つであった
  • 『続日本紀』宝亀三年十月辛酉条の墾田永年私財法解禁や、『続日本紀』延暦八年三月戊午条の造東大寺司廃止も縮小政策の一環だった
  • 『続日本紀』延暦八年四月乙酉条の鈴鹿・不破関における飛駅函(中央と地方間で緊急連絡の際に派遣される飛駅使が携行する太政官符などの文書)開見禁止の勅は、三関停廃3ヶ月前の出来事だったため大きく関連していると思われる
  • 三関における飛駅函開見は律令に規定されておらず途中で慣例化したものであり、愛発関が対象外だったのは実質的に機能を失っていたからではないか

松原氏:情報管理機能の喪失

  • 新日本古典文学大系『続日本紀』五によると、飛駅函開見禁止は東北における対蝦夷戦に伴う情報の迅速化と機密保持が目的だったのではないか
  • このことから三関は人物の交通だけでなく伝達される文書の内容を掌握する情報管理機能の役割もあった
  • 飛駅函開見禁止により情報管理機能を喪失し、三関は必要とされなくなり停廃に到った

次回の記事:三関の停廃理由に関する考察

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次回の記事では三関の停廃理由について僕の論を展開し始めます。

まずは、長岡京造宮に際した交通の円滑化、貴族復権に伴う縮小政策、飛駅函開見による情報管理機能、過所勘過による交通検察の観点から論じます。