古代三関の研究と歴史学入門

大学生・社会人向け歴史学入門。自身の研究テーマは「三関(鈴鹿・不破・愛発関)の成立起源と停廃理由」

三関の成立起源に関する研究 〜壬申紀の記述を巡って〜

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前回の記事では三関(不破・鈴鹿・愛発関)はいずれも成立起源が明らかではないことを説明しました。

不破・鈴鹿関については『日本書紀』壬申紀に関所の存在をほのめかす記述がありますが、それを初見記事として見るか否かが研究者によって意見が分かれます。

先行研究として喜田新六氏、横田健一氏、野村忠雄氏、佐藤宗諄氏、新井喜久夫氏、舘野和己氏、松原広宣氏の見解をまとめました。

三関成立に関する考察の中心となる史料

三関のうち不破・鈴鹿関の成立年代は『日本書紀』天武元(672)年の壬申紀(壬申の乱・大海人皇子と大友皇子による皇位継承を巡る争い)における記述をめぐって議論されています。

「関」や「関司」というワードが登場する一方で、塞いだのは「道」と表現されていることから不破・鈴鹿関が壬申の乱時点において存在していたか否かで議論が分かれます。

『日本書紀』天武元年六月朔壬午条

六月辛酉朔壬午。詔村国男依。和珥部臣君手。身毛君広曰。今聞。近江朝廷之臣等。為朕謀害。是以汝等三人急往美濃国。告安八磨郡湯沐令多臣品治示機要。而先発当郡兵。仍経国司等発諸軍不破道。朕今発路。

要約:大海人皇子が村国連男依らを美濃国へ派遣し不破道の遮断を命じた。

『日本書紀』天武元年六月甲申条

甲申。(中略)遇于鈴鹿郡則且発五百軍鈴鹿山道(中略)是夜半。鈴鹿関司遣使奏言。山部王。石川王並来帰之。故置関焉。

要約:大海人側の兵士5百人で鈴鹿山道を塞ぎ、大友側の山部王と石川王を関で止めたと鈴鹿関司が大海人皇子に伝えた。

『日本書紀』天武元年六月丙戌条

丙戌。(中略)男依乗駅来奏曰。発美濃師三千人不破道

要約:村国連男依によって美濃国3千人の兵士で不破道を塞いだ。

三関成立に関する先行研究

三関成立に関しては、喜田新六氏、横田健一氏、野村忠雄氏、佐藤宗諄氏、新井喜久夫氏、舘野和己氏、松原広宣氏が以下のように論じておられます。

  • 喜田・横田氏:三関の立地場所から、近江国に都があった天智朝の成立
  • 佐藤・舘野・松原氏:鈴鹿関は天智朝から存在していたが不破関は未設置
  • 野村氏:壬申の乱当時は簡素な造りであり、完全に整備されたものではなかった
  • 新井氏:鈴鹿関・不破関ともに壬申の乱以後の天武朝の成立

不破関の成立に関する先行研究

  • 天智朝説:三関の立地から近江国に都があった天智朝に成立していた
  • 天武朝説:塞いだのは「不破道」であり、当時に不破関は存在しなかった

鈴鹿関の成立に関する先行研究

天武朝説

  • 六月甲申条で「山道を塞ぐ」という表現をしていることから、元々この地には「関」と呼ばれる施設は存在しなかった
  • 『日本書紀』編纂時は既に鈴鹿関と律令が存在したことから、律令用語から借用して「関司」と表記した(新井氏)
  • 大宝令に規定されているような大規模かつ恒常的な設備の存在は疑わしく、急造された簡単な設備に過ぎなかった(野村氏)

天智朝説

  • 六月甲申条の「鈴鹿関司」が鈴鹿関の初見である
  • 東国を結ぶルートとして不破よりも鈴鹿を経由する道が重要視されていた。また、塞いだ鈴鹿山道とは別の場所に鈴鹿関が存在した(佐藤氏)
  • 新井氏の律令用語の借用という説に対して、それが事実ならば不破も同様に「関」と表現されるべき(松原氏)

新井氏:愛発関の成立に関する先行研究

  • 『日本書紀』天武元年七月朔辛卯条・七月辛亥条で、羽田公矢国らが北越地方への進軍を命じられ琵琶湖東岸を北方に向かって出発、20日後に琵琶湖西岸の三尾城を攻め落としている
  • 東岸からのルートを選んだのは先に北陸道を遮断するためであり、その地が愛発関の起源となった

次回の記事:三関の成立年代に関する考察

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次回の記事では、先行研究を踏まえた上で三関の成立年代に関する僕の考察を展開していきます。