古代三関の研究と歴史学入門

大学生・社会人向け歴史学入門。自身の研究テーマは「三関(鈴鹿・不破・愛発関)の成立起源と停廃理由」

固関の制度と三関の律令規定 〜過所による交通検察〜

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前回の記事より、壬申の乱の中で道を遮断したところから成立した三関(不破・鈴鹿・愛発関)は、律令時代において最重要視される関となります。

恵美押勝の乱をはじめとする国家の重要事件において、固関という役割をもって三関は活躍します。

三関特有の慣例である固関と、律令に規定されている軍事的機能と過所による交通検察についておさらいして考察していきます。

反乱者の逃亡を防ぐ固関の制度

壬申の乱の中で成立した三関は律令政治において重大な役割を担います。

三関の主な機能として固関(こげん)があります。固関とは、非常時に反乱者が東国へ逃げ出るのを防ぐために関を固く閉ざして守護することです。

固関の初見は元明太上天皇崩御を記した『続日本記』養老五年十二月七日条です。

また、『続日本記』天平元年二月十日条に記されている長屋王の変においても固関が行われています。

その後も天皇の崩御や政変、反乱などといった大きな政治的事件が起こるたびに固関が実施されました。

三関の固関が有効に機能した事例として恵美押勝の乱があります。

『続日本紀』天平宝字八年九月乙巳条で恵美押勝の逆謀が発覚し固関が行われます。

そして『続日本紀』天平宝字八年九月壬子条で恵美押勝が越前国へ逃げ出ようとしたところを愛発関で阻止したと記されています。この固関によって勝敗を決しました。

律令における三関の軍事的機能

三関が軍事的に重要視されていたことは『続日本紀』和銅元年三月二十二日条の三関国の国守に傔仗(護衛の武官)2人が与えられる記事から読み取れます。

それでは三関は大宝律令の中でどのように規定されているのでしょうか。

軍防令置関条によると、関には兵士が配置され、三関には鼓吹軍器(太鼓や吹奏楽器)が設けられたとされています。

兵士の数を記した別式は散逸して不明ですが、他の律令規定から配置された兵士の数を推測可能です。

軍防令軍団置鼓条には、軍団も三関に置かれた鼓吹軍器と同じものを持つと規定されています。そして軍団は千人の兵士によって構成されると軍防令軍団大毅条に記されています。

鼓吹軍器は大人数の兵士をまとめて動かすことに用いられたとされているため、三関にも軍団と同規模の兵士が備えられたのでしょう。

三関の設備

鈴鹿関において、律令に規定された設備が存在していたことが史料上で確認できます。

『続日本紀』宝亀十一年六月辛酉条では西内城の太鼓が、『続日本紀』天応元年三月乙酉条では西中城門の太鼓が、『続日本紀』天応元年五月甲戌条では城門と守屋で木を衝くような音が自ずと鳴ったという記述がされています。

このように鈴鹿関において軍防令に示される太鼓と、西内城や西中城といった設備があったことが確認できます。

そしてこれらの設備は不破・愛発関も同様に備わっていたと見ていいでしょう。

律令における三関の交通検察機能

三関には人や物の往来をチェックする交通検察の役割も規定されました。

衛禁律私度関条によると違法に関を越えようとした者に対して罰則があり、関によって罰則の重さが異なります。

その罰則の重さから、

  1. 三関
  2. 摂津・長門関(瀬戸内海交通を東西で結ぶ関)
  3. 余関(その他の関)

という順位が定められています。このことからも三関が最重要視されていることがわかります。

関を通行するための過所制度

関を通行するためには、過所という通行手形が必要ということが関市令欲度関条に記されています。

関市令齎過所条によると、関司は関を通行しようとする者の過所を勘過し、過所が正当なものであれば通行を許可して勘検内容を記録しました。

このように過所の発給や違反者への罰則が細かく規定されていることから、過所制度は律令政治において重要な施策であったことがわかります。

また、考課令最条によると道を行く者を公平に検察することこそが関司の最であるとしています。すなわち、律令政治における関の主な役割は交通検察だったのです。

交通検察の意図

関で交通検察を実施した意図は、本貫地主義(戸籍・計帳に基づく人民支配)を徹底する上で浮浪・逃亡を防ぐことでした。

『令義解』軍防令置関条によると、関は各国境に配置されたとあり、人々の移動を一国内に限定する目的と考えられています。

しかし、その説には多くの疑問点があります。『令義解』戸令新附条には関国に対して他国という表現がされており、戸令絶貫条では関の無い国があったことを示唆しています。

『出雲国風土記』には出雲国の各郡に関が置かれていたと記されていますが、政治的な有事に際して随時的に置かれる非常置の関が存在したようです。

なぜすべての道の関で恒常的な検察が行われなかったのでしょうか。

関による交通検察の限界

舘野和己氏によると、過所制以外の浮浪・逃亡を防ぐ手段として「五保の制」を挙げています。これは戸令五家条に定められており、各戸の住民で相互監視を行うものでした。

『続日本紀』延暦三年十月丁酉条によれば、都における盗賊の多発に対して五保の制で対応しています。

関は設立と維持にコストがかかるため、すべての道において常時運転させることが難しかったのです。そのような理由から関は要所にのみ限定して置かれたと思われます。

しかし、関による交通検察はうまく機能しなかった様子が『続日本紀』霊亀元年五月一日条に記されています。全国で浮浪・逃亡が多く絶えないため、過所に国印を押すことを諸国に命じたとあります。

これは過所制度の見直しであり、関による交通検察機能が順調でなかったことを示しています。

次回の記事:三関の停廃理由に関する先行研究

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次回の記事では三関の停廃理由に関する先行研究を紹介します。