古代三関の研究と歴史学入門

大学生・社会人向け歴史学入門。自身の研究テーマは「三関(鈴鹿・不破・愛発関)の成立起源と停廃理由」

大学で研究する歴史学とは 〜高校までの勉強との違い〜

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歴史が好きで得意な大学受験生にとって、歴史学科への進学は進路選択の1つになるでしょう。

ただ、高校までの「歴史科目」と大学で勉強する「歴史学」とでは、同じ歴史をテーマとしながらも学ぶ目的や内容が大きく異なります。

この記事では歴史学を研究する上で知っておくべき史料批判と歴史観について簡単に説明します。

高校までの歴史科目と大学で研究する歴史学の違い

高校までの歴史科目は、教科書や参考書を使って日本や世界で起きた出来事を知識として得ることが目的でした。

一方の大学の歴史学科では、学問としての歴史学のプロセスを学びます。

歴史学の営みには、

  • 史料(歴史研究の手がかりとなる資料)から事実を明らかにする
  • 断片的な出来事を繋いで歴史を叙述する

以上の2つがあり、そうした歴史学の研究成果が歴史教科書へと反映されます。

換言すると歴史科目は教科書を読む学習、歴史学は教科書を作る学習ということになります。

歴史学は文献史料から事実を考証する学問

「歴史」は、狭義には国や物事の変遷が文字によって記録されたものを言います。文字による記録は文献史料と呼びます。

文献史料によって考証可能な時代を歴史(有史)時代と呼び、文献史料から事実を紐解く学問が歴史学です。

逆に文献史料が現れる前の時代を先史時代と呼び、考古資料を用いる考古学で研究されます。

つまり文献史料が読めなければ歴史学の研究はできませんので、歴史の知識以上に史料読解力が重要となります。

研究対象となる国と時代によって史料読解に求められる知識は異なります。例えば日本古代史の場合、古典と古文書学の知識、場合によっては中国の史料も読める必要があります。

すべての文献が事実を伝えているとは限らない

文字は人が発明したものであり、人にしか扱えません。すなわち文献史料は「人が読むために人によって書かれる」ということになります。

しかし、人は間違える生き物です。誤字脱字はあり得ますし、書き手の思い込みや勘違いによって事実と異なる内容が書かれているかもしれません。

また、書き手の都合に合わせて恣意的な表現や虚偽の内容が書かれる場合もあります。さらに偽造や改ざんされた文献の可能性も考慮しなければなりません。

つまり、すべての文献史料に書かれている内容が事実とは言い切れないのです。書かれていることをそのまま鵜呑みにしてしまうと、歴史を間違えて認識してしまうおそれがあるのです。

そこで複数の文献史料や手がかりとなる史料と比較して、書かれていることの正当性を確かめる必要があります。このプロセスを史料批判と呼びます。

歴史学は史料批判を経て文献に書かれていることの真偽を確かめ事実を追求する、人文科学に属する学問なのです。

大学で学ぶ歴史学は高校までの歴史科目とは異なり、歴史の知識を覚えることよりも情報を収集・解読・整理した上で考察・発信する能力が問われます。

考古資料は真実を伝える

歴史学は基本的に文献史料の記述に対して、別の文献史料で史料批判を行います。

ただ、文献史料だけでは研究に限界がある場合、考古資料を参考にする場合があります。

考古資料とは昔の人が不要になって捨てたものや建物の痕跡などが奇跡的に残存し、時を経て地中から掘り出されたものです。

言い換えれば発掘調査で掘り出したお宝は、昔そこにいた人が捨てたゴミというわけです。

このゴミというところが重要なポイントです。まさか何百・何千年も先にそのゴミが掘り出されるとは誰も思わないでしょう。

僕たちも日常的にゴミを捨てていますが、遠い未来の人がそのゴミを調べて研究すると考えますでしょうか。

つまり考古資料には人による情報の操作が介入することなく、純粋に歴史を伝えてくれる重要な史料となり得るのです。

考古資料の発掘が文献史料による研究を裏付けたり、あるいは覆す可能性があります。悔しいですが僕は歴史学よりも考古学の方が遥かに尊い学問のように感じます。

事実を繋いで歴史を叙述する

歴史教科書に親しんでいる我々にとって、歴史とは原始・古代から現代に至るまで1本の物語のように感じます。

しかし、歴史上に起こった出来事は一つひとつ単発的なものに過ぎません。

数多ある出来事の中から重要なものを選択し、それらを関連・意味付けて繋げていくことも歴史学の役割です。

歴史学によって叙述された1本の歴史が、歴史教科書となるのです。

歴史観によって歴史の捉え方に差がある

今と昔では歴史教科書の内容が変化してきているのは、テレビをはじめとして話題になっているのでご存じの方も多いかと思います。

教科書の内容が変わるという場合、2つのパターンがあります。

1つは新たな発見によってそれまでの定説が覆された場合。もう1つは歴史観の違いによって歴史に対する考え方が変わった場合です。

現在の歴史教科書は唯物史観(マルクス主義歴史観)の色が強いです。唯物史観とは、主な生産様式の遷り変りが歴史を動かしているという考え方です。

具体的に説明しますと、どの国家も古代(農奴制)→中世(封建制)→近代(資本主義)と生産様式の変化によって歴史は進み、最終的に共産主義の社会が訪れるという考え方です。

日本もこの法則に当てはまるのではないかと唯物史観による歴史研究が盛んになり、生産様式の変化を中心として叙述された歴史教科書ができあがるというわけです。

しかし、最近は唯物史観よりもウォーラーステインという歴史学者が提唱した世界システム論という歴史観が注目されています。

唯物史観では国家内部における生産様式の遷移が論点でしたが、世界システム論ではヘゲモニー(覇権)を握った国家との対外関係が歴史に影響を及ぼすという考え方をします。

歴史観によってどの部分を重要視するかが変わりますので、歴史教科書の内容にも影響が出ます。歴史学の研究する上で、歴史観の違いも重要な要素となるのです。

教科書は歴史学の研究成果から作られる

歴史の教科書に書かれていることは、歴史学によって研究された結果を簡潔にまとめたものです。その中にはまだ議論の余地があるものや、まだ史料が未発見の事柄も多数あります。

昔と今で教科書の内容が変化してきているのは、新たな史料が発見されたり歴史の解釈が変わるなど研究の進歩があるためです。

つまり完璧な歴史はまだまだ完成しておらず、高校までの歴史科目は歴史研究の途中経過を見ているに過ぎません。

まだ明らかになっていない歴史を研究する手段が歴史学であり、大学の歴史学科では歴史学の手法を学ぶのです。