古代三関の研究と歴史学入門

大学生・社会人向け歴史学入門。自身の研究テーマは「三関(鈴鹿・不破・愛発関)の成立起源と停廃理由」

古代三関の研究まとめ 〜成立起源と停廃理由〜

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ここまでたくさんの史料や参考文献を使用して三関の成立起源と停廃理由について論じてきました。

歴史学のプロセスが見えるように、論拠となっている史料をすべて記してきましたが、歴史学を専門に学んでいない人にとってはややこしいだけだったかもしれません。

そこで論旨だけを抜き取って簡単にまとめ、「古代三関の成立と停廃」のあらすじにしました。

古代三関の成立起源

三関(さんげん)とは不破・鈴鹿・愛発関の総称です。

律令時代において最重要視された関所ですが、その成立起源は不明のままです。

『日本書紀』の壬申紀(壬申の乱)の中に登場する「鈴鹿関司」を鈴鹿関の初見記事とするか否かで議論が分かれます。

壬申の乱の中で成立した

壬申紀では「鈴鹿山道を塞ぐ」「不破道を塞ぐ」という表現であり、その地に鈴鹿関や不破関は存在していなかったと解釈します。

その一方で、三関が規定される大宝律令制定までに成立記事も見当たりません。大坂・龍田山の関の記述があるのに、最重要視される三関の成立記事がないのは不自然です。

壬申の乱の中で道を塞いだ際、敵の圧倒的な兵力に対抗するために簡易な防御設備を造ったのではないかと考えます。

その防御設備が関の原型となり、その時点で不破・鈴鹿関の成立と見なされたのです。

愛発関に関しても壬申の乱の中で北越地方への進軍が行われる場面があり、その際に北陸道を塞いだことが考えられます。

つまり三関の成立起源は、壬申の乱の中で道を塞ぐ際に備えられた簡易な設備だったのです。

古代三関の停廃理由

三関は人・物・情報の往来を把握することと、事件が起きた際に反乱者が東国へ逃げることを防ぐ役割を担いました。

しかし、延暦八年に突然停廃します。防御に使うことなく交通の妨げになっていることが理由と記されていますが、当時は蝦夷征討の軍事行動が活発化し防御が必要とされていたはずですから実情と合いません。

健児が蝦夷征討軍に引き抜かれて停廃した

人・物・情報の往来は浮浪・逃亡の増加と飛駅函開見禁止により機能を失い、軍事面に関しては健児(こんでい)の制度が停廃に関係していると考えます。

健児とは弓馬の扱いに長けた少数精鋭の部隊で、天平宝字六年に三関国と近江国に設置されました。僕は三関と近江国相坂関の守護は各国の健児が担っていたと考えます。

蝦夷征討に向けて宝亀十一年に全国で健児に相当する兵士の育成が始まります。さらに浮浪・逃亡者であっても健児クラスの戦闘能力があれば徴発するように命じられています。

これは蝦夷征討軍の主な徴発地である坂東諸国(現在の関東地方)の兵士が力不足であったため、兵士不足を補うものでした。

そして延暦五年に鈴鹿・不破関のある東海・東山道で兵士や武具の簡閲が行われ、その3年後に三関が停廃しています。また、延暦十年にも同様の簡閲が行われ、4年後に相坂関が停廃しています。

この過程で鈴鹿・不破・相坂関を守護していた健児が蝦夷征討軍に引き抜かれたことにより、三関は軍事力を喪失して停廃の要因となったのではないかと考えます。

つまり、三関は対蝦夷軍事行動によって交通検察と軍事的機能を失い停廃に到ったのです。

古代三関の評価

三関停廃後も固関(天皇崩御や政治的事件の発生に伴い関を閉ざすこと)の慣例はしばらく続きましたが、次第に儀式的なものへと変化していきました。

そして寂れた様子が和歌として詠まれるほどに、三関が廃れていく姿を人々は目にしました。律令において重要な位置づけをされた三関でしたが、十分な役割を果たせず律令時代と共に歴史の終焉を迎えたのです。

ただ、現在も「関西」や地名の由来として三関の名残は存在しています。

ざっくりと研究のあらすじを書きましたが、詳細に知りたい方は以下のリンクから読んでみてください。

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