古代三関の研究と歴史学入門

大学生・社会人向け歴史学入門。自身の研究テーマは「三関(鈴鹿・不破・愛発関)の成立起源と停廃理由」

三関の停廃理由に関する考察 〜蝦夷征討と健児の関係〜

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前回の記事では、三関(鈴鹿・不破・愛発関)の停廃理由に関する先行研究として、喜田新六氏、野村忠男氏、松原広宣氏の説をまとめました。

長岡京造宮事業における交通の円滑化、貴族復権に伴う縮小政策の一環、飛駅函開見禁止の勅との関連、過所勘過による本貫地主義政策の頓挫、そして蝦夷征討と健児の関係から三関停廃を論じます。

長岡京造宮に際した交通の円滑化について

長岡京造宮に際した交通の円滑化は三関停廃の主な理由ではないと考えます。

人の往来が対象とするならば、三関停廃直前に飛駅函の開見を禁止した意図がわかりません。

また、交通を円滑にして各地から役夫を多く集めるならば、三関・相坂関・摂津関だけでなく余関もすべて停止する必要があるのではないでしょうか。あるいは過所制度そのものが見直されるべきです。

『出雲国風土記』に記されているように郡単位で関が設置されており且つ稼働していたならば、過所の発給と検察が必要であり結局交通の滞りは解消できないでしょう。

また、造宮のための一時的な理由だったとすれば兵器などの設備をすべて撤去する必要もありません。人の往来が増えることにより暴動や反乱のリスクは大きくなりますから、緊急時の備えとして三関の設備は置いたままにしておくべきでしょう。

つまり長岡京造宮という一時的な事情ではなく、完全に廃止するという意図をもって三関は停廃されたと考えます。

貴族復権に伴う縮小政策について

長岡京造宮や蝦夷征討で経済的に厳しい状態だったことは間違いなく、その中で縮小政策が行われたと考えるのは自然です。

中央国家にとって主な収入は各地方から納められる調・庸でした。調・庸を確実に納めさせるには各国の負担を取り除かなければなりません。

そこで行われたのが墾田永年私財法復活による浮浪・逃亡対策や、『類聚三代格』延暦十一年六月七日条の軍団停止などといったコストと負担軽減政策でした。

三関の停廃はその一環だったと見ることができますが、その縮小政策の対象となった理由は議論する必要があります。

蝦夷とは緊張状態だったにもかかわらず、なぜ防御の備えであった三関を停廃したのでしょうか。

飛駅函開見による情報管理機能に関する考察

三関停廃の原因を探る上で最も着目すべきは『続日本紀』延暦八年四月乙酉条の飛駅函開見禁止の勅です。

その勅が出された背景には、対蝦夷軍事行動が大きく関係しているのではないかと考えます。

『続日本紀』延暦五年八月甲子条によると、蝦夷征討のために東海・東山道諸国に対して兵士や武具の簡閲が命じられています。

『続日本紀』延暦七年三月辛亥条で東海・東山道諸国と坂東諸国で徴集された兵士たちに対して陸奥国多賀城に集結するよう勅が出され、『続日本紀』延暦八年三月辛亥条に予定通り兵士たちが多賀城に集結したことが記されています。そして約1ヶ月後に飛駅函開見禁止の勅が出されます。

東海・東山道は畿内と東国を結ぶルートであり、その上に鈴鹿・不破関が存在していました。飛駅函開見禁止の勅は蝦夷征討において情報伝達の迅速化と機密保持を図ったものと思われます。兵士の簡閲が行われる過程でその必要性が挙げられたのでしょう。

また、畿内と東国を結ぶルート上に存在する相坂関をはじめとする他の関が飛駅函開見禁止の対象になっていないことから、飛駅函の検閲は三関でのみ行われていた慣例だったことがわかります。

愛発関が飛駅函開見禁止の対象になっていなかったのは、北陸道が蝦夷征討における情報交換の主要ルートとして使用されなかったからだったためではないでしょうか。

過所勘過による本貫地主義政策に関する考察

関で行われた過所勘過による交通検察の目的は政策浮浪・逃亡を防いで本貫地主義を徹底することでした。

しかし、『類聚三代格』延暦四年六月廿四日条では浮浪人をすべて本貫に還すこと、『類聚三代格』延暦四年十二月九日条では太宰府管内9国の浮浪人からも調庸を取り立てるといった政策が行われました。

これらの浮浪・逃亡人に対する直接的な対応は、過所勘過による交通検察がうまく機能していなかったという証明です。

浮浪・逃亡は手に負えないほど増加していまい、過所勘過による本貫地主義政策は頓挫し縮小政策の対象となったのでしょう。

摂津関の停廃理由は難波宮撤廃

三関停廃の4ヶ月後の『続日本紀』延暦八年十一月壬午条では摂津関、6年後の『日本紀略』延暦十四年八月十五日条では相坂関が停廃されています。

これらの関は三関に次いで重要視された関です。これらの関が停廃した理由についても考えましょう。

摂津関の停廃は三関停廃とは全く別の意図があると考えます。摂津関は難波宮に帯同して運営された関であり、長岡京遷都によって難波宮が撤廃された頃には既に摂津関は機能を失っていたのです。

しかし、摂津関は律令に規定があるため即座に停廃することができなかったのです。三関の停廃により関制が解体され、摂津関も公式に停廃に到ったのではないでしょうか。

三関と相坂関の共通点は健児の設置

相坂関は近江国に設置された関です。近江国と三関国に共通する事情として、762年に行われた健児の設置があります。

健児は『続日本紀』天平六年四月甲寅条で制度として存在していることが確認でき、『続日本紀』天平十年五月庚午条で北陸・西海道を除いて一旦廃止されました。

それから『続日本紀』天平宝字六年二月辛酉日条で伊勢・近江・美濃・越前国に健児を置くことが定められて、健児の制度は復活しました。健児には弓や馬の扱いと実戦に長けた者が推薦されて選ばれました。

三関国が指定されていることから、三関の守護は健児が担ったのではないかと考えます。近江国には後に愛発関に代わって三関に加わる相坂関があります。

全国的な健児の育成開始

『続日本紀』宝亀十一年三月辛巳条で、三関国と近江国以外で弓馬の扱いに堪える者の育成が進められます。

宝亀十一年は伊治公呰麻呂の反乱により蝦夷征討が本格化した時期で、兵士を募る過程で弓馬の扱いに堪える者が必要とされたのです。

弓馬の扱いに堪える者とは健児に相当する兵士です。三関国と近江国が対象外となっているのは既に健児が設置されていたからでしょう。

これにより健児の育成が全国的に始まったことと、三関国と近江国が健児先進国として認知されていたということがわかります。

蝦夷征討における全国的徴発

『続日本紀』宝亀十一年七月甲申条によると、蝦夷征討における兵士の徴発は坂東諸国が中心でした。

しかし『続日本紀』延暦二年六月辛亥条で、坂東諸国の兵士は役に立たないという理由から弓馬の扱いに長けて戦闘に堪える者であれば浮浪・逃亡人でも問わず徴発されています。

それから延暦五年の東海・東山道諸国における兵士の簡閲が行われています。また、『続日本紀』延暦十年正月乙卯条でも再び東海・東山道での軍士簡閲が行われ、その4年後に相坂関が停廃。そして『日本紀略』延暦十三年正月乙亥朔条に蝦夷との戦闘状態に入ったことが記されています。

この軍士簡閲の過程で不破・鈴鹿・相坂関に配置されていた健児が蝦夷征討軍に引き抜かれたのではないかと考えられます。

健児が徴発されたことにより関を守護する兵士が不在となり、三関は軍事的機能を失ったと考えます。

三関停廃のまとめ

三関は情報管理機能、交通検察機能、軍事的機能の3つの役割を担っていました。

しかし、飛駅函開見禁止、浮浪・逃亡の著しい増加、蝦夷征討軍への健児の引き抜きによってすべての役割を失った三関は、縮小政策の過程で停廃に到ったのではないでしょうか。

これらは対蝦夷戦に向けた軍事行動がきっかけでした。つまり停廃記事に見える「時務」とは長岡京造宮ではなく蝦夷征討のことだったのです。

次回の記事:三関停廃後の固関の変化

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次回の記事では三関停廃後の固関の変化について論じます。