古代三関の研究と歴史学入門

大学生・社会人向け歴史学入門。自身の研究テーマは「三関(鈴鹿・不破・愛発関)の成立起源と停廃理由」

三関の成立起源に関する考察 〜鈴鹿山道・不破道の解釈〜

スポンサーリンク

www.kodai-sangen.com

前回の記事では、三関の成立起源について喜田新六氏、横田健一氏、野村忠雄氏、佐藤宗諄氏、新井喜久夫氏、舘野和己氏、松原広宣氏の見解をまとめました。

『日本書紀』壬申紀の記述から不破・鈴鹿関の成立時期が天智朝以前からか天武朝以降かで意見が分かれています。

先行研究の各見解を踏まえて僕の考察をはじめます。

三関は壬申の乱以前に成立していない

塞いだのは関ではなく「不破道」であるという記述であり、命じてから遮断が完了するまで25日を要したことを考えると、壬申の乱時点で不破関は存在していなかったと考えます。

不破関の成立については『一代要記』白鳳元年三月条と『帝王編年記』白鳳二年七月条に不破関が設置されたことを伝える記事があります。

これらの史料は信憑性が乏しく、また記述されている月が異なることからも鵜呑みにはできません。

しかし、白鳳年間の初期という点で近似していますし、不破関発掘調査書『美濃不破関』によると東山道に面した築地塀跡付近から白鳳期の軒丸瓦が出土しています。

不破関は遅くとも天武天皇即位後である白鳳期には成立していたことになります。

鈴鹿関についても封鎖が行われたのは「鈴鹿山道」であって、そこに鈴鹿関が存在していたとは言い切れません。

「関」と「関司」は律令成立後の『日本書紀』編纂時に加えられた表現だと考えます。

壬申の乱後の成立も不確かである

壬申の乱以前の成立ではないと考える一方で、天武朝の成立についても定かではありません。

三関は律令上に規定されているため、大宝律令が成立する頃には三関が存在していたことになります。

しかし、壬申の乱の終了から大宝律令制定までの間に、三関の成立を示す記事が『日本書紀』には見えません。

龍田・大坂山における関の設置は記述されているのに、律令政治において最重要視される三関の成立が記されていないのは不自然です。

壬申の乱の中で三関は成立した

壬申の乱以前・以後共に成立に関わる確実な記事が見えないとなれば、壬申の乱の中で成立したと考えるべきではないでしょうか。

着目すべきは道の遮断に動員された兵士の人数です。鈴鹿山道では5百人、不破道では3千人の兵士が道の遮断に動員されています。

大友側は『日本書紀』天武元年七月一日条で数万の軍勢を率いて不破を襲撃しています。圧倒的な戦力差であり、まともにぶつかっては勝てません。

そこで関に備わるような濠や柵、兵士を留める建物といった設備も即席で造ったことが考えられます。

その造った設備が不破・鈴鹿関の成立起源となったのではないでしょうか。その時点から関として扱われたのであれば、「関司」と呼ばれる役職者が登場しても不思議ではありません。

乱後に関の設備が完成した

設備を整えるには非常に短い期間だったため、本来の関と比べて簡素な造りだったのでしょう。

乱後も建造が続けられ、普遍的な関の姿となったのが白鳳期に入ってからであったため『一代要記』や『帝王編年記』で成立記事として取り上げられたのではないでしょうか。

不破・鈴鹿関が壬申の乱時に道が遮断された場所を由来とするならば、愛発関の成立も同様の可能性があります。

その場合は羽田公矢国らが北陸道を塞いだ地が愛発関の由来になったと考えるべきでしょう。

三関は反乱者によって造られた反乱者を討伐する施設

三関は大海人皇子が東国で挙兵するにあたって、敵の軍が自陣へ辿りつけないように施した防御設備が由来となって成立しました。

そして大海人皇子が天武天皇として即位した律令社会において、非常時に反乱者が畿内から東国へ逃れるのを防ぐ「固関」という役割を三関は担うことになります。

この役割は天武天皇、つまりかつての反乱者自身の経験に基づいて定められたものだったのです。

次回の記事:固関の制度と律令に規定された三関の役割

www.kodai-sangen.com

次回の記事では、固関の慣例と律令に規定されている軍事設備や過所制度について解説します。