古代三関の研究と歴史学入門

大学生・社会人向け歴史学入門。自身の研究テーマは「三関(鈴鹿・不破・愛発関)の成立起源と停廃理由」

三関停廃後の関制と固関の変化 〜愛発関廃止と儀式化〜

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前回の記事より、蝦夷征討の軍事行動が進む中で三関(不破・鈴鹿・愛発関)は停廃しました。

三関停廃後も天皇崩御時に行われる固関は継続して行われましたが、次第に儀式化していきます。

固関がどのように変化していったのかを見ていきましょう。

三関停廃後の長門関や余関

三関、摂津関、相坂関は停廃されましたが、摂津関と並んで位置づけられた長門関やその他の余関はどうだったのでしょうか。

三関停廃の記事は『類聚三代格』延暦八年七月十四日条にも採用されているのですが、『続日本紀』の記述とは異なり三関に限定せず一切の関を停廃すると記されています。

喜田氏は単なる記述ミスと見ている一方で、舘野氏は弘仁格で当時の実情に合うように記載されたと推察しています。

三関、摂津関、相坂関が停廃されたことにより、過所勘過を必要としない抜け道が生まれました。ゆえに関による交通検察の秩序は瓦解し、事実上一切の関が停廃したと言えるでしょう。

ただし、一部の関では交通検察が継続されました。『日本後紀』大同元年七月乙未条では長門国で、『類聚三代格』承和二年十二月三日条では陸奥国における勘過の失態を指摘されています。

三関停廃後でも長門国や陸奥国といった外患を憂慮すべき地域では関による交通検察の機能が必要とされていたことがわかります。

愛発関に代わって相坂関が三関に加わる

『日本後紀』大同元年三月辛巳条で桓武天皇の崩御に対して三関の固関が命じられており、三関は停廃したものの固関の制度だけは残りました。

しかし、停廃以降二度目の固関が『日本後紀』大同五年丁未条(平城太上天皇の変)の中で行われますが、この事件以降の固関は越前国愛発関ではなく近江国相坂関で実施されています。

愛発関ではなく相坂関で固関が行われた理由は、軍団廃止と同時に各国に定められた健児の定数から推察できます。

『類聚三代格』延暦十一年六月七日条で陸奥・出羽・佐渡・大宰府を除いたすべての国で軍団兵士を廃止し、『類聚三代格』延暦十一年六月十四日条で三関国と近江国を含む全国において定められた数の健児を置くこととなりました。

野村氏は健児100人以上の国とそれ未満の国とで大別して各国の重要度の指標にしています。

100人以上の健児を置いた国は、蝦夷征討における主な兵の徴発地域である坂東諸国、山陰・山陽道の要国である出雲・播磨国、そして三関国と近江国です。

その中でも最大の数を擁したのは常陸国と近江国の200人で、三関国を超える軍力を擁していました。近江国は都の東隣にある国なので軍事的に重要視されたのでしょう。

そして平安京や平城太上天皇が遷都を企てた平城京に近かったことから愛発関に代わって相坂関で固関が実行されたのではないでしょうか。

固関の儀式化

固関は平城太上天皇の変での実施を最後に儀式的なものへと変化していきます。

従来の固関では従五位以上の者が固関使として派遣される慣例でしたが、『続日本後紀』承和七年五月癸未条の淳和太上天皇崩御時に行われた固関は変則的でした。

まず身分不相応な府生大初位の役人が派遣され、現地に着いてから従四位下の役人が代わって固関を実施しています。

これまでの慣例とは変則的な措置がとられているということは、固関の制度が厳格なものでなくなってきていることを示唆しています。

『続日本後紀』承和九年七月丁未条の嵯峨太上天皇崩御で行われた固関は、そのわずか2日後の『続日本後紀』承和九年七月己酉条で解除されています。

固関がいつ解除されたかについて記されたのはこの時が初見で、これまでの天皇崩御における固関がどれくらいの期間で実施されたのかは不明です。

しかし、政変に便乗して反乱を起こそうとする者が東国へ逃げ出たり、東国から畿内への襲撃を防ぐという目的を考えると2日間の固関は短すぎではないでしょうか。

さらに、この時の固関解除と同日に橘勉勢らによる謀反(承和の変)が発生していたのですが、それに際して固関は改めて行われませんでした。

天皇以外の要人が亡くなった場合でも固関が行われるようになりました。『三代実録』貞観十三年九月廿九日壬寅晦条の仁明天皇皇太后藤原順子が亡くなった時や、『三代実録』貞観十四年九月四日辛未条の太政大臣藤原良房が亡くなった際にも固関が行われています。また、前者は8日後の『三代実録』貞観十三年十月七日己酉条で、後者は4日後の『三代実録』貞観十四年九月八日乙亥条で固関が解かれています。

つまり、軍事的な意味合いをもった固関は平城太上天皇の変が最後で、それ以降の固関は天皇の崩御やその他の要人が亡くなった際に行う儀式へと変化していったのです。

固関が儀式化した理由

固関が儀式的なものへと変化していった理由を考えると、固関による防御の重要性が小さくなったと考えられます。

『日本後紀』大同五年九月戊申条(平城太上天皇の変)で、平城太上天皇が東国へ向かう際に宇治橋・山崎橋・淀に頓兵を置いて警護にあたらせています。また、『続日本後紀』承和九年七月己酉条(承和の変)においても宇治橋・大原道・大枝道・山崎橋・淀渡の5ヶ所の守備が命じられています。

二藤智子氏によれば、これらの警護された場所は平安京から見て三関よりも内に存在しており、固関と合わせて二重の防衛線として利用されたとのこと。

『続日本紀』延暦三年七月癸酉条で阿波・讃岐・伊予の3国に山崎橋建造に用いる材を進上させています。山崎橋はおそらく長岡京の運営に際して造られたものであり、都の治安維持の為に用いることも想定されていたかもしれません。

そうすると三関の停廃と固関の儀式化の発端は、この山崎橋建造が大きく関係しているのかもしれません。

次回の記事:停廃した三関のその後と古代日本における存在意義

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次回は「古代三関の成立と停廃」の最終回記事です。停廃した三関のその後の様子と、三関が古代日本においてどのような存在意義を果たしたか評価します。