古代三関の研究と歴史学

三関(不破・鈴鹿・愛発関)の成立年代と停廃理由について、大学時代の歴史学科で書いた卒業論文をリライト

鈴鹿関跡を歴史フィールドワーク

鈴鹿関の史跡(関町新所の観音山にある西城壁築地跡と亀山市歴史博物館にある重圏文軒丸瓦)を歴史フィールドワークしてきました。実施日は2018年8月27日(月)です。

歴史フィールドワーク(歴史散歩・史跡探訪)のススメ

歴史は本や映像で学ぶこともできますが、その舞台となった史跡へ訪れることも大きな学習になります。こうした歴史散歩や史跡探訪を歴史フィールドワークと呼んでいます。

大学で勉強する「歴史学」と高校までの「歴史科目」の違い

高校までの「歴史科目」と大学で勉強する「歴史学」とでは、同じ歴史をテーマとしながらも学ぶ目的や内容が大きく異なります。歴史学を研究する上で知っておくべき史料批判と歴史観について簡単に説明します。

古代三関(不破・鈴鹿・愛発関)の成立起源と停廃理由の考察

古代三関(不破・鈴鹿・愛発関)の成立起源と停廃理由を考察しました。成立起源は壬申の乱、停廃理由は対蝦夷軍事行動が大きく関係しています。

「古代三関の成立と停廃」で使用した参考文献と史料一覧

「古代三関の成立と停廃」で使用した参考文献と史料の抜粋を一覧にしました。

停廃した三関のその後と古代日本における存在意義

三関停廃後も美濃国へのむやみな出入りが問題視されるなど社会への影響はあり、荒れ果てていく不破関について和歌も詠まれました。三関の停廃はすなわち律令時代の終焉を意味していると言っていいでしょう。

三関(不破・鈴鹿・愛発関)停廃後の過所勘過と固関の変化

三関の停廃も長門国や陸奥国では過所勘過が行われました。三関の固関も行われましたが、愛発関に代わって相坂関が閉ざされるようになります。また、時が経つにつれて固関が儀式化していく様子も見て取れます。

三関(不破・鈴鹿・愛発関)の停廃理由に関する考察【後編】

相坂関は三関・摂津関に次いで停廃され、三関国と相坂関が置かれた近江国には健児が設置されたことから、三関の守護は健児が担当したと考えます。健児が蝦夷征討軍に引き抜かれたことが三関停廃の要因だったと考察します。

三関(不破・鈴鹿・愛発関)の停廃理由に関する考察【前編】

三関の停廃理由として長岡京造宮事業における交通の円滑化、貴族復権に伴う縮小政策の一環、飛駅函開見禁止の勅との関連、過所勘過による本貫地主義政策の頓挫について考察します。

三関(不破・鈴鹿・愛発関)の停廃理由に関する先行研究

三関は789年に突然停廃されますが理由は不明です。停廃理由に関する先行研究として喜田新六氏、野村忠男氏、松原広宣氏の説をまとめました。

固関の制度と律令に規定された三関の役割

三関は固関という重要な役割を担います。律令の規定では軍団と同規模の兵と武器を備えたと考えられます。また、過所勘過による交通検察の機能も有しました。

三関(不破・鈴鹿・愛発関)の成立起源に関する考察

三関の成立起源について考察していきます。壬申の乱時点で三関は存在していませんでしたが、乱の中で不破道、鈴鹿山道、北陸道を遮断した場所がそのまま不破・鈴鹿・愛発関の成立起源となったと考えます。

三関(不破・鈴鹿・愛発関)の成立起源に関する先行研究

三関の成立起源について『日本書紀』壬申紀の記述をめぐった先行研究として、喜田新六氏、横田健一氏、野村忠雄氏、佐藤宗諄氏、新井喜久夫氏、舘野和己氏、松原広宣氏の見解をまとめました。

古代日本の関制と三関(不破・鈴鹿・愛発関)の概要

古代日本の関制において最重要視された美濃国不破関・伊勢国鈴鹿関・越前国愛発関は三関と総称されました。三関は成立起源と停廃された理由が明らかになっておらず、今もなお研究の余地があります。

三重県は関西地方? 「関西」の語源と定義を解説

関西の語源は古代日本に存在した三関に由来しています。三関は滋賀の東県境に位置しており、これより西側が関西です。よって東側に位置する三重県は関西ではありません。